謹賀新年 令和二年庚子年 [祭礼・行事]
ひなの祭り [祭礼・行事]
博物館に初もうで 2014午年 [祭礼・行事]
1月2日。上野のトーハク(東京国立博物館)の、「博物館に初もうで」へ行って来ました。
毎年、1月の2日と3日に、本館前の階段に、特設ステージを設けて、様々な演芸が披露されます。
太鼓の演奏。獅子舞。そして、今年は紙切りの公演がありました。
雛の祭り [祭礼・行事]
雛―女夫雛(めおとびな)は言うもさらなり。桜雛、柳雛、花菜の雛、白と緋と、紫(ゆかり)の色の菫雛(すみれびな)。鄙(ひな)には、つくし、鼓草(たんぽぽ)の雛。
・・・・・・・・・・・
いや、実際六(むつ)、七歳(ななつ)ぐらいの時に覚えている。母親の雛を思うと、遥かに竜宮の、幻のような気がしてならぬ。
泉 鏡花 雛がたり
岩波文庫版 鏡花短編集より
ひなまつり [祭礼・行事]
あかりをつけましょ ぼんぼりに
お花をあげましょ 桃の花
五人ばやしの 笛太鼓
今日はたのしい ひな祭り
うれしいひな祭り
サトウハチロー 作詞 ・ 河村光陽 作曲
雛祭りの頃になると、雛人形は勿論、桜餅や雛あられを売る店先からも、聞こえて来るのは、この「うれしいひな祭り」か「赤いもうせん しきつめておだいりさまは 上のだん きんのびょうぶに ぎんのだい」という歌詞の「ひなまつり(作詞:林柳波)」のどちらかです。
この二つの歌の中では、僕はサトウハチローさんの、「うれしいひな祭り」の方が、詩としては非常に優れていると思っています。
でも・・・
春の七草 [祭礼・行事]
芹 セリ 2012.1.7.撮影
1月7日は七草でした。
万葉集の時代から、若菜を摘んで食べる風習があったということですが、実際のところ真冬のこの時期では、あまりにも寒くて、若菜を摘みに出掛ける気分にはなりません。
本当は、こうした古くからの風習は、旧暦(太陰暦)に基づいて行われるべきものかも知れません。
今年の旧暦の1月7日は、現在の暦の1月29日に相当しますが、その頃には、もう少しは暖かくなるのでしょうか?
確かに、未だ春は遠いのですが、それでも家の近くの公園(習志野市 藤崎森林公園)の周りを探すと、七草の内の幾つかが芽吹いていました。
七草とは、セリ・ナズナ・ゴギョウ・ハコベラ・ホトケノザ・スズナ・スズシロ の七種類の野草や野菜を言います。
七草の記事は、これまでも何度か書いていますが、すべての写真を纏めた記事はなかったと思いますから、改めて書いて見ることにします。
それでは、順番通りに「セリ」から始めます。
ひな人形のいる街角 ~かつうらビッグひな祭り~ [祭礼・行事]
久しぶりに、特急列車に乗って出掛けて来ました。
辿り着いたその街では、こんな街路の植え込みの辺りにまで、愛らしいお雛様が飾られています。
何とも不思議な光景ですが、ここ一週間ばかり、テレビのニュースにも度々取り上げられている、千葉県勝浦市のビッグひな祭りで撮った写真です。
芽の輪 [祭礼・行事]
ある程度大きな神社では、六月三十日に「夏越祓」という神事が執り行われることがあります。
この時期には、神社の拝殿前などに、茅萱を束ねて作った大きな「茅の輪」が置かれる事もあり、「茅の輪くぐり」をすることが出来ます。
―写真は、東京の「神田明神」の「茅の輪」です―
「茅の輪」を、8の字を描くようにしてくぐり抜けると、夏の疫病などから身を守るご利益があると言われています。
くぐり方に就いては、たいてい「茅の輪」の脇に、説明書きが付いていますので、初めての方でも、それを読めばすぐに分かると思います。
また、神社によりますが、小さな「茅の輪」をお守りとして、出しているところもあります。
チガヤ 茅・茅萱 イネ科 チガヤ属
「茅の輪」は、この「チガヤ」の葉を束ねて作るのだそうです。
「チガヤ」は「ツバナ」ともいいます。上の写真では既に花が終わり、綿毛のようになっていますが、まだ若い花穂は噛むと甘く、昔の子供たちはおやつ代わりに噛んでいました。
京都 八坂神社 (2003年7月撮影)
この「茅の輪」の由来に就いては、次のような伝説が残されています。
昔、「牛頭天王」という神さまが、旅の途中に日が暮れたので宿を借りようとして、巨端長者の家を訪れました。しかし、金持ちの巨端は宿を貸すのを惜しみ、冷たく拒絶したのです。
仕方なくこの家を立ち去るとき、牛頭天王は巨端の一族を滅ぼすことを、固く心に決めたのでした。
というのも、この牛頭天王は、実は恐ろしい疫病をもたらす神様だったからです。
牛頭天王が、次に訪れたのは、蘇民将来という貧しい人の家でした。
みすぼらしい家だからと、一旦は宿泊を断った蘇民将来でしたが、結局は宿を貸し、貧しいなりに心をこめてもてなしをしました。
牛頭天王は、蘇民将来のもてなしに感謝をして、願いが叶うという「牛玉」というものを与えて、旅立って行きました。
後に、再び蘇民将来の家を訪れた牛頭天王は、巨端長者を滅ぼす為、部下に巨端の家の様子を探らせていました。
その事を知った蘇民将来は、巨端長者の家には自分の娘が働いているので助けて欲しいと、牛頭天王に頼みます。
すると、牛頭天王は蘇民将来に、「茅の輪」を作って赤い絹に包み、更に「蘇民将来の子孫」と書いた札を娘の腰に付けさせるようにと教えます。
やがて、牛頭天王は眷属を率いて巨端長者の家を襲い、その一族を滅ぼしました。
勿論、蘇民将来の娘だけは無事だったといいます。
これが、「茅の輪」の由来と言われる物語です。
この話は、古くから伝わる伝説で、内容が少しづつ異なる、幾つもの物語が残されれています。
奈良時代に編纂された『風土記』の中には、蘇民と巨端は兄弟で、貧しい蘇民将来が兄、金持ちの巨端将来が弟であったという話もあります。
(もっとも、この部分に就いては『風土記』の「逸文(『風土記』の原典から失われていた部分)」とされていますが、本当は鎌倉時代に書かれたものと考えられているようです)
神社の説明書き等では、巨端長者を滅ぼした事については省略されていたりすることもありますが、古くから伝わる伝説では、どれもそういう話になっているようです。
上に載せた写真は、三年前に撮った京都の「八坂神社」の境内です。
京都の八坂神社は、古くは「祇園社」と呼ばれていました。
その祭礼である「祇園祭」は、平安時代に始められた「祇園御霊会」という、疫病をもたらす神を送る行事が元とされています。
八坂神社の神様は、元々は「牛頭天王」が祭られていましたが、現在は素戔嗚尊とされています。
もっとも、牛頭天王と素戔嗚尊とは、同一の神とも考えられていますので、どちらでも問題はないのでしょうが・・・。
祇園祭の山鉾(2003年7月撮影)
牛頭天王という神様は、名前の通り牛の頭をもった神様で、インドの祇園精舎の守り神だったとも言われていますが、同時に疫病をもたらす「行疫神」つまり「疫病神」とされています。
日本思想史の山本ひろ子さんは、その著書『異神』の中に、
「その名から想像されるように、牛頭天王は日本古来の神ではなく『異神』の仲間に属する」けれども「各地に祀られて広く民衆の崇敬を獲得していった」と書かれています。
(『異神』とは、山本ひろ子さんの造語で、元々は異国からやって来たらしい、謎めいた神々を指しています)
確かに、地方の神社の境内に残されている小さな石の祠には、「牛頭天王」の文字が刻まれたものをよく見掛けることがあります。
また、先に上げた伝説に基づいて、地方によっては「蘇民将来子孫の家」という張り紙を、門や戸口などに貼る所もあります。
牛頭天王を祀る信仰とは、恐ろしい疫病をもたらす神に祈って、疫病から免れようという信仰であるということなのでしょう。
参考文献
風土記 日本古典文学大系 岩波書店
異神 山本ひろ子著 平凡社
〔 異神 文庫版 ちくま学芸文庫(上・下)
「牛頭天王」に関する論考は、下巻に所収 〕
燈火の妖精 [祭礼・行事]
毎年、八月初旬から十日間、奈良市内の奈良町から奈良公園の周辺で、「燈火会(とうかえ)」という行事が行われています。
「燈火会」は、NPO法人の主催で6、7年前から始まった行事で、古くからあるものではありません。
しかし、周辺にある、興福寺などのお寺も参加する、大規模な行事となっています。
今年(2005年)は、8月6日(土)~8月15日(月)まで、開催されるそうです。
ここに掲載した写真は、昨年の燈火会に行った時のものです。
その日、奈良へは日帰りで来ていました。最後に、興福寺の東金堂に参拝して帰ろうと思い、お堂の内陣に入る前に正面の参拝場所へ行ったときの事です。
賽銭箱の前に、三、四歳くらいの小さな女の子が立っていて、鰐口の綱を引こうと、一所懸命に小さな手を伸ばしていました。でも、その子は小さ過ぎて、とても届く様子ではありません。
「鈴、鳴らしたいの?」 僕が訊ねると、その子は大きく頷きます。
「じゃあ、おじさんが抱っこしてあげようか?」 すると、やっぱり女の子は大きく頷きました。
僕がそっと抱き上げると、その小さな子は腕をいっぱいに伸ばして、一所懸命に太い綱を引きます。
何度か繰り返す内に、漸く鰐口が小さな音を立てると、女の子は満足したような表情を見せました。
「鈴、鳴ったね!」 僕は、声を掛けて女の子を下に降ろすと、
「ありがとう」 女の子は、可愛い声でそう言うと、お堂の石段を駆け下りて行きました。
女の子の去っていた人ごみに目を遣ると、その子は一度だけ立ち止まって、手を振ってくれていました。そうして、不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)を祀る南円堂の方へ向かって、再び一目散に人混みの中を走り出すと、忽ちのうちに僕の視界から、消え去って行ったのです。
その時僕は、心の中にほっとするような暖かいものを残して走り去った、あの小さな子が、付近の堂塔に祀られた諸仏の内の誰かに遣わされた、燈火の精のように思えてなりませんでした。
東金堂前
興福寺では、五重塔をライトアップしています。
上の東金堂の写真の奥に見える、強い光がライトアップの照明です。
闇に浮かぶ、国宝の五重塔はなかなか幻想的で美しいものです。
「燈火会」の期間、興福寺では「国宝館」を通常より遅い時間まで開放していました。しかし、遅い時間になると、さすがに入館者も少なく、僕はあの美しい『阿修羅像』と、心行くまで対面して来ることが出来ました。
興福寺の『阿修羅像』を愛する方たちは、大勢いらっしゃると思いますが、
この so‐netブログのメンバーでは、僕の存じ上げる限りだけでも、
sera さん IXY-nob さん lapis さん が、いらっしゃいます。
もしも、『阿修羅像』に会いに行かれるなら、この時期は狙い目かも知れません。
今年も、国宝館・東金堂ともに、夜8時位まで開いているそうですが、もしも、行かれる場合は、事前にご確認下さい。
また、「燈火会」自体も、雨天は中止の場合があります。
実際、僕は一昨年も行ったのですが、台風が接近して居り、雨天中止となってしまいました・・・。こちらも、事前に下記HP等でご確認を。
なら燈花会 公式HP
http://www.toukae.jp/index.html
興福寺 公式HP
http://www.kohfukuji.com/
原則的に、三脚が使用禁止のため、石段の上にカメラを置いたり、膝に乗せて撮ったりした為、綺麗に写ったものは少なかったのが残念でしたが・・・。
しかし、もっと残念だった事があります。
毎度のことですが、特に中高年カメラマンの中には、他人の迷惑を顧みず、どこにでも大型の三脚を立てて撮影する人たちの姿が、あちこちで見られました。
でも、上にも書いた、東金堂で出合った燈火の精のような小さな子が、最後に僕を優しい気持ちにさせてくれたので、楽しい記憶だけを持って帰ることが出来ました。