我が憧れの阿修羅 -2- [仏像]
阿修羅のいる興福寺は、和銅3年(710年)に都が藤原京から平城京に遷都した後に、現在地に建立された仏教寺院です。
建立の発願者は、藤原不比等ですが、本尊の釈迦三尊像は、不比等の父である藤原鎌足の念持仏であったと伝えられています。
また、この釈迦三尊は、近江の大津京では山階寺(やましなでら)に、藤原京では厩坂寺(うまやさかでら)に、それぞれ本尊として祀られていたと言います。
その為、興福寺の起源は669年創建の山階寺にあるとされており、興福寺には「山階寺」の別称があるそうです。
天平6年(734年)。
光明皇后は、生母・橘三千代の一周忌に際し、その菩提を弔うために「西金堂(さいこんどう)」を建立されました。
西金堂の本尊は、釈迦三尊像で、その周りには「脱活乾漆」と言う特殊な技法を用いて作られた、二十八体の護法神等が祀られていたということです。
阿修羅像は、この西金堂の諸仏の中の一体として造立されています。
西金堂の造営には皇后宮職(こうごうぐうしき)という朝廷の機関が関わっていたということですが、その為か、「正倉院文書」に西金堂の造営に関する決算報告書が残されていて、以下のようなことが分かっています。
造営に携わった人員が、延べ五万五千人であったこと。費用は、二千貫文以上を費やしたこと。二十石九斗一升という大量の漆を使用したこと。また、その漆の価格は、堂の建設費用と変わらないほどに高価であったことなどです。
興福寺は、日本史上類例のないほどに、罹災と復興を繰り返して来た寺であるといいます。
中でも最大の災厄は、治承四年(1180年)に起こった、平重衡(たいらのしげひら)による「南都焼討」という事件でした。この際の兵火によって、隣接する東大寺の大仏殿が焼かれたことは有名ですが、興福寺もまた寺内の堂塔が全焼してしまうという甚大な被害を蒙っています。
因みに、この時「南都焼討」を行った平重衡は、後の源平の合戦の際、一ノ谷で捕らえられ、一度は鎌倉に送られますが、南都衆徒の要請を受けて、東大寺の使者に引き渡され、木津川の辺で斬首されて、二十九歳の生涯を閉じました。
尚、前の記事で少し触れた「修羅能」の一つに「重衡」という曲があります。
それは、父親である平清盛の命を受け、心ならずも寺を焼き、僧を殺した罪のために、死後に修羅道に堕ちた重衡の霊が、その苦患からの救いを求めて現れるという物語です。
世阿弥の子である、観世元雅の作と伝えられているこの曲は、五百五十年もの間上演されることなく忘れ去られていたそうですが、観世流シテ方浅見真州(あさみまさくに)師が昭和58年(1983年)に復曲されています。
僕は、この能を興福寺・東金堂前で毎年秋に開催されている「塔影能」という行事で、拝見する機会を得ました。
それは、もう十年も前の平成11年(1999)年の事でしたが、この演能に際し、興福寺では平重衡に対して新たに戒名を追贈して、追善回向を実施しています。
南都焼討も、重衡の斬首も、共に歴史上の事実です。勿論、それは八百年以上も昔のことであり、重衡の受ける苦患もまた、能の物語の中でのことではあります。しかし、例えそうではあっても、そしてそれが仇敵とも言える存在の受ける苦患であっても、苦しむ者に手を差し伸べて救おうとする、興福寺の寺僧の方々の思いに、僕は心打たれながら「重衡」の能を拝見したことを思い出しました。
重衡による南都焼討の際には、当然西金堂も焼け落ちてしまいましたが、阿修羅像を含む「脱活乾漆像」の大半は、幸いなことに救い出されています。
その後も、興福寺は度重なる罹災を受けていますが、その都度復興を遂げて来ました。しかし、江戸時代の享保二年(1717年)一月に起きた火災では、金堂・講堂・僧坊・西金堂・南円堂・中門・南大門等を失いますが、その後再建されたのは、南円堂と金堂だけでした。しかも、金堂は仮堂としての再建に過ぎませんでした。
この時も、阿修羅像とその仲間たちは救い出されていますが、西金堂そのものは、現在に至るまで、再建はなされていません。
それほど繰り返して災禍を被りながらも、興福寺には多くの国宝が残されています。その多くは、仏像・建築物ともに、鎌倉時代に作られたものが多数を占めていますが、白鳳時代や藤原時代に作られた文物も残されています。そして、何より素晴らしいのは、天平時代の仏像が数多く残されていることだと思います。
それは、西金堂の諸仏の内「阿修羅像」を含む「八部衆」の八体と、「釈迦十大弟子像」の内の六体、都合十四体の護法神と仏弟子たちの像です。
確かに、最初の造営の時には、二十八体あった諸仏が、半分の十四体になったことは、惜しんでもあまりあります。けれど、度重なる火災の中から、それだけの像が救出され続けたということは、奇跡と言っても過言ではありませんが、実はそのことには「脱活乾漆」という仏像の制作技法が関わっているように思えます。
本当は、今回の記事には「脱活乾漆像」に就いて、すこし詳しく書く心算でした。
でも、当初考えていなかった、能のことを思い出してしまったため、ちょっと内容が変わってしまいました。
次回は、「脱活乾漆像」のことや「阿修羅像」そのもののことを、もう少し書いてみたいと思っております。
参考図書
おはようございます^^
歴史も色んな角度から見ないといけませんね~
800年前の歴史が今日まで息づいているのを肌で感じます。
by mimimomo (2009-03-01 05:27)
800年後に戒名の追贈、歴史は生きていますね。
by SilverMac (2009-03-01 06:23)
本格仏像記事ですね。それも連載ですね。
by 春分 (2009-03-01 10:20)
昨年夏、ふと奈良に行ってみたくなり、1泊2日で出かけてきました。
奈良は中学生の修学旅行以来ですから、○十年ぶり。
すべて見るものが新鮮で感動的でした。
中でも阿修羅は一番印象が深かったでした。
ガツンとやられたーというぐらいに強烈でした。
その阿修羅が東京に来るので、とても楽しみにしています。
by COLE (2009-03-01 21:47)
興福寺の歴史、興味深く拝見しました。
それにしましても、五百五十年もの間忘れ去られていた作品を復活させたというのは、
凄いことだと思います。
次回も楽しみにしております。
by lapis (2009-03-01 22:57)
正に歴史を感じます。
いい勉強になりました。
800年後に戒名を贈り回向するというのに感動しました。
by kaisersd (2009-03-01 23:32)
こんばんは。
日本の歴史建造物は木造で焼失が多いのですが、
何か逆に「生きている」という何とも言えない愛着を感じますね。
多くの人の手がかかって、それも含めて歴史ですね。
by じゅん (2009-03-02 20:11)
「二十石九斗一升」というと、具体的にどのくらいなのかは分かりませんが、
とにかく大量の漆だというコトは分かります。最後の鹿が、なんだか愛らしい^^。
by sakamono (2009-03-06 00:07)
何度も火災にあってなお残った14体の仏像にはわけがあったようですね。
「脱活乾漆像」は初めて聞く言葉ですが、次回も楽しみにしています。
鹿、かわいいですね。
by penpen (2009-03-10 14:30)
現代のような建築機械のない時代にこんなに高い建物が作られたのってすごい技術があったのでしょうね・・・
どのように作っているのか、昔に戻ってみてみたいです^^
by あやこ (2009-03-10 18:54)