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「振袖火事」由来 前編 [歴史・伝説]

 

皇居 東御苑。
地下鉄東西線の竹橋駅で降りて、お堀に沿った緩い坂道を登って行き、北桔橋門(きたはねばしもん)を抜けると、皇居の一部として、一般に公開されている「東御苑」に辿り着きます。

東御苑に入るには、実際には三つの入り口がありますが、この北桔橋門から入って少し歩くと、先ず巨大な石垣が見えて来ます。
ここがかつて、旧徳川幕府の居城「江戸城」であったころの、天守閣跡の石垣です。
この石垣の上に建っていたはずの壮麗な天守閣は、実は江戸時代も初期の頃、四代将軍徳川家綱の時代である明暦(めいれき)三年(1675年)に起こった「明暦の大火」で焼け落ち、以後現在に至るまで再建されることはありませんでした。

「明暦の大火」は、俗に「振袖火事」とも呼ばれており、石垣の登り口に設置された案内板にも、天守閣が「振袖火事」で消失した旨が、括弧付きではありますが、確かに書き記されています。

しかし、「振袖火事」という言葉から多くの人たちは「八百屋お七」の物語を思い浮かべているのではないかという気もします。

事実、江戸時代の文化史や美術史の専門家でさえ、「振袖火事」と「八百屋お七の火事」とを混同している場合があります。僕は、幾つかの小さな展覧会の解説や図録などに、そうした間違いを見付けた事がありました。
専門家でさえこうした間違いを犯す理由は、「八百屋お七」という若い娘と「振袖」というイメージが結びつきやすいからかも知れません。
しかし、「振袖火事」と俗称される「明暦の大火」と、後に起こった「八百屋お七の火事」の間には、歴史的には25年もの隔たりがあるのです。

また、この火事は、「振袖火事」という情緒的な名称とは裏腹に、当時の江戸の町の大半を焼き払い、十万人とも言われる焼死者を出し、更に数日後に江戸を襲った、寒波と吹雪の為に、多くの凍死者までをも出した、未曾有の大災害です。

火事が起ったのは、今から349年前の今日、一月十八日の事でした。そして、翌十九日の二日間にわたって燃え続けたと記録に残っています。

そこで、「明暦の大火」所謂「振袖火事」について、二回に分けて、今回はその概容を、次回は名称の由来となった物語を記してみたいと思います。

但し、「明暦の大火」という大きな火事があったことは事実ですが、「振袖火事」の物語に就いては、後世になって語られはじめた「巷説(こうせつ)」つまり、噂話であり史実ではありません。
また、幽霊こそ登場しませんが、怪談話に近いものであることも、予めお断りしておきます。

ちなみに、振袖と言えば、現在は未婚の女性が着る物とされていますが、当時は男女を問わず、元服前-つまり、成人式前-の少年少女が着用する着物でした。実は、この「振袖火事」も、一人の美少年が着ていた紫縮緬の美しい振袖に端を発します。

 

明暦三年一月十八日、江戸。
その日は、夜明け頃から北西の風が激しく吹き荒れていた。
江戸の町には、昨年の冬以来、一滴の雨も降っていない。
乾燥しきった町の中を、風は凄まじいばかりの砂塵を巻き上げ、僅かな先も見えない程であった。

こんな日の、火の不始末は大火事の元になりかねない。
何しろこの正月は、元日から四谷竹町辺りで大火事があって以来、二日・四日・五日・九日と火災が続いている。
江戸の町人たちは、煮炊きの火を付ける事もままならず、この風が止むことを祈るばかりであった。

そんな折、午後になって、江戸も外れに当たる本郷丸山の本妙寺辺りから、突然の火の手が上がった。
乾燥しきった木造建築を、炎は瞬く間に焼き尽くす。
更に、折からの烈風に煽られ、火はたちまちのうちに、駿河台の辺りにまで燃え広がっていった。

しかし、乾燥した江戸の町では、既に井戸水も涸れ果て、消火用の水にも事欠く状態であった。更に、凄まじいばかりの烈風の中では、まだ焼けていない建物を打ち壊して火勢を弱めるという「破壊消防」のやり方では、到底役にはたたなかったのである。

炎はいよいよ激しさを増し、神田明神をはじめとする名だたる神社仏閣をも焼き尽くし、際限もなく燃え広がって行く。江戸の町には、火災から逃げ惑う人々の狂乱の声が満ち溢れた。

やがて火事は、馬喰町から小伝馬町辺りに迫っていた。この時、小伝馬町の牢屋敷を預かる石出帯刀は、例え罪人といえども獄にいるままに焼死させるのは哀れであるとして、火事が収まった後必ず戻る事を条件に、囚人たちを解き放った。
石出の温情に打たれた囚人たちは、僅かに逃げ去ったもの数人を残して、殆どの者が鎮火後に自ら牢へ戻ったという。

だが、その頃江戸の町には、囚人たちが破獄したとの噂が流れ始めていた。
更には、この火事は数年前に幕府の転覆を図ったとされる、由井正雪の残党の放火によるものであるとの風聞も、伝わり始めていた。
その為に、浅草あたりの木戸を管理する者たちが、破獄者や謀反人の動きを封じようと、門を閉ざしてしまったのである。

そこへ、逃げ惑う群集が殺到した。閉じられた木戸の前に逃げ道を失った群衆は、後から押し寄せてくる人波に押し潰され、ひしめきあって倒れて行った。
当時、そこに掘られていた浅草堀にも、逃げ場を失った群集は次々と飛び込んで逃れようとした。しかし、堀は忽ちにして人で埋まり、ここで二万人以上もの死者が出たと伝えられている。

この日の火事は、柳原や佃島といった民家が途切れ、田圃となるあたりまでをことごとく焼き尽くし、漸くにして収まった。

翌日十九日の江戸の町には、身内の死を悼んで嘆くもの、死んだと思っていた身内に会えて喜び合うもの、悲喜交々の町人たちの姿があったという。

だが、激しい風は未だ吹き止まず、十九日の午後になって、小石川の辺りから再び火の手が上がった。

この炎もまた、たちまちの内に燃え広がり、終には江戸城にも飛び火したのである。

炎が巻き起こす風が、江戸城の天守閣に火の粉を降らせる中、天守二重目の北西の窓が、旋風に押されたのか、突然内側から開いた。炎は、その間隙に素早く襲い掛かかり、あっと言う間に燃え広がって行った。
ここに、さしもの威容を誇った江戸城の天守閣も、空しく灰燼に帰したのであった。

 

ここまでは、徳川幕府の正史として編纂された「徳川実記」や、大火から間もなく書かれた 浅井了意の作とされる「むさしあぶみ」にも記載された内容を元にまとめたものです。

次回は、その「徳川実記」にも「むさしあぶみ」にも書かれていない、「振袖火事」という名称の発端となった巷説をお話しする予定です。

 

参考文献
 徳川実記 第四篇 厳有院殿御実記   国史大系所収 吉川弘文館
 むさしあぶみ  日本随筆大成 第三期   第六巻所収 吉川弘文館 
 新版 江戸から東京へ(一) 矢田挿雲     中公文庫版 中央公論社 
 江戸三百年(一)天下の町人 西山松之助・芳賀登編  講談社現代新書
 明暦の大火      黒木 喬                               講談社現代新書
  *講談社現代新書の二冊に就いては、どちらも昭和50年頃の出版の為
    現在は、絶版となっているようです。

 


花の受難 [歴史・伝説]

日本には、法律で定められた「国花」はありません。
しかし、一般的には「桜」か「菊」が、「国花」と考えられています。

桜は、元々日本にも自生していた植物ですが、菊は奈良時代に中国から入って来ました。
原産地の中国では、梅・竹・欄と並んで、四君子と呼ばれて、大切にされて来た植物です。
しかし、そんな菊も、日本では入って来た当時から、人気があった訳ではありません。

奈良時代に編纂された、「古事記」「日本書紀」「万葉集」のどれにも、菊に関する記述は一つもありません。
同じ中国原産の「桃」は、黄泉(よみ)の国から帰還した伊弉諾尊(いざなぎのみこと)を、追って来た悪霊から守った霊力のある植物として、古事記にも登場します。「桜」もまた、梅に比べると少ないものの「万葉集」の歌として多く取り上げられています。こうしたことを考えても、菊に対する日本人の思い入れは、当時は殆どなかったと言っていいかのも知れません。

 

平安時代から、鎌倉時代にかけては、栽培も行われ、文学作品にも取り上げられるようになります。

しかし、栽培に関しては、ほぼ宮中などで育てられるに留まっていました。

皇室の紋章として取り上げられた事に就いても、鎌倉時代になってからです。
それは、当時の後鳥羽上皇が、菊を好んだ事が理由であり、特別な歴史的意味づけ等があったわけではなさそうです。

菊の栽培が一般に広まったのは、江戸時代頃からで、この時期には様々な変わった品種が創出されています。

明治になって新政府が発足すると、菊は皇室の正式な紋章として法的に守られることとなります。
同時に桜もまた、その散り際の潔さから、軍国主義的な意味を持たされはじめました。
これには、江戸時代のころから広まり始めた、桜は日本固有の花で外国には存在しないという、誤った解釈も影響しているといいます。
(現実には、中国にもヨーロッパにも自生しています)

こうして、「菊」も「桜」も政治的・思想的な意味合いを付加して、富国強兵を急ぐ明治政府に利用され、やがては昭和に至る軍国主義の象徴とされてしまうのです。

 

そして、これは「菊」ではなく「桜」が蒙った不幸なのですが、第二次世界大戦が終わった後の、日本国内では様々な場所で、公園や並木のサクラが、かつての忌まわしい軍国主義の象徴だからとの理由で切り倒されてしまうという、事件が起こったということです。

どんな理由にせよ、罪もない植物がこのような形で切り倒されたという事実があるとすれば、それはあまりにも悲しい出来事だと思います。

現在のように、どの花も花としての美しさを愛でる事が出来るのは、本当は当たり前の事なのでしょうが、同時にとても幸せな事なのかも知れません。

                 参考資料:平凡社 世界大百科事典 DVD版 
                        小学館 スーパーニッポニカ CD-ROM版 他

12月8日、ずっと昔、日本が不幸な戦争を始めてしまった日に・・・

 


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江戸時代の奈良観光案内 [歴史・伝説]

                                                        奈良公園 夕景

去年と一昨年は、八月に奈良へ行きましたが、今年は、ついに行くことが出来ませんでした。

そこで、せめてもと、幻の奈良旅行に出掛けることにしました。
但し、行く先は現在の奈良ではなく、江戸時代の奈良。今から、290年から、300年ほど昔の奈良へ、行って来ることにしようと思います。

旅の案内は、僕の手もとにある『南都寺社名所記』という、江戸時代に発行された、ほぼB4版サイズの一枚物の旅行案内です。

 

この『南都寺社名所記』には、現在の奈良公園周辺の社寺の案内が載っています。
主なところは、猿沢の池・興福寺・春日大社・東大寺などです。

 

挿絵として、東大寺の大仏殿の絵が描かれているだけで、後はそれぞれのお堂などに祀られている仏様の名前が、細々と書き込まれています。

ここに掲載した画像では、サイズが小さいので、あまり良く分らないかも知れません。
もし、興味をお持ちになられた方は、僕のHPに大きな画像を置いてありますので、宜しければご覧下さい。
 
My HP ←こちらから、『版本』のページをご覧下さい。

             再建工事中の中金堂越しの、五重塔と東金堂

この『南都寺社名所記』で、興福寺の項目に入ると、いきなり『南大門』の事が書かれています。
しかし、興福寺へ行かれたことのある方なら、多分ご存知かも知れませんが、現在の興福寺には南大門はありません。これは、江戸時代の享保2年(1717)に、火災で焼け落ちています。
その他にも、中門・南円堂・西金堂・中金堂・講堂等、その時に消失した建物が残らず載っています。
それが、288年前の事なので、この『南都寺社名所記』が作られたのは、290年以上は昔だろうと考えられるわけです。

その際、焼け落ちた中で、江戸時代に再建されたのは、中金堂と南円堂くらいで、後は再建されることなく明治時代を迎えます。

そして、また明治の「神仏分離令」により、興福寺でも「食堂(じきどう)」等の建物が失われて行きました。
現在は国宝となっている「五重塔」は、一旦焼き払われることに決まった後、危うく難を逃れて残されることになったものです。

 

                        数年前に再建された南円堂

南円堂は、享保の火事の後、直ちに立て直されていますが、現在建っているものは、数年前に再建された建物です。

また、現在は国宝館に収められている『阿修羅像』も、この時被災した『西金堂』に安置されていた諸仏の中の一体でした。阿修羅を含む八部衆などは、主に麻布と漆を使う『脱乾漆』という技法で作られていて、非常に軽量である為、火災の際も手早く運び出せたのかも知れません。

しかし、この『南都寺社名所記』には、阿修羅像のことは、残念ながら一切記載されていません。

 

僕にとって、夏の時期に奈良公園を歩く楽しみの一つは、可愛い子鹿の姿を見ることです。
この時期には、漸く乳離れをし始める頃の子鹿が、母鹿に甘える姿がとても可愛いものです。

奈良の鹿は、当然江戸時代以前から、この辺りにいた訳ですが、『南都寺社名所記』では、鹿のことにも触れられてはいません。


江戸時代の奈良観光案内である『南都寺社名所記』には、まだ春日大社や東大寺についても記載されています。
特に、東大寺については、大仏様の顔や手足のサイズまで書かれていて、なかなか面白いのですが、まだ解読文が完成出来ていません。

大分以前のことですが、ラジオの番組で、永 六輔さんが「旅行のガイドブックと言うものは、旅に出る前に読むものではなく、帰ってきてから『ああ、ここも間違っている、あそこも間違っている』と、間違い探しをして楽しむものだ」という意味のことを仰って居られました。実は、この『南都寺社名所記』にも、あちこちと間違いの箇所が見つけられます。
その為に、解読し難い面もあるのですが、永さんの言葉を思い出して、そんなことも楽しみながら解読するのも、案外面白いものです。

いずれ、解読が出来ましたら、また続きを記事にして見ようと思っています。
その時は、また宜しくお願い致します。

 

 


タグ:奈良 興福寺 鹿

二上山 にて [歴史・伝説]

                            ツマグロヒョウモン  鱗翅目 タテハチョウ科

この『ツマグロヒョウモン』の生息域は、東海から近畿・四国・九州 だということです。
つまり、関東地方には住んでいません。

実は、この写真を撮った場所は、奈良県です。
四年前の七月の半ばに、『二上山(ふたかみやま、または にじょうさん)』の山頂近くで撮りました。

『ツマグロヒョウモン』は、翅の模様が雌雄で、まったく異なっています。
この個体は、雄です。

 

 『二上山』は、古来より『ふたかみやま』と呼ばれていたと思うのですが、『にじょうさん』とも、呼ばれています。

この山の名前は、山頂が「雄岳」と「雌岳」の二つあることに依っています。
山にあった案内板に依れば、「雄岳」が517m「雌岳」が474.2mだということです。

この山の頂上付近には、義理の母親とも言える持統天皇に謀反の嫌疑をかけられて、非業の死を遂げた、大津皇子の陵墓があります。

 百伝ふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
                  大津皇子 辞世  万葉集 巻三

大した標高でもないので、その場で思い立って登ってしまったのですが、それまでに散々歩いて来たことと、暑さの為に途中でバテそうになりました・・・。
山道も、思ったより急な場所や、湧き水で滑るところもあります。
上の写真のような、岩の露出した細い道も、かなり長く続いていました。

 


受難の花 [歴史・伝説]

先日の『トケイソウ』の記事に、ナナさんから『トケイソウ』の果実が『パッション・フルーツ』と呼ばれていること、そしてはるまきママさんとlapis さんからは、この花が『パッション・フラワー』と呼ばれ、『キリスト受難の花』とされている事に就いてのコメントを頂きました。

最初にこの花に就いて調べた時、勿論その件に関しても調べた本には載っていて、一応読んではいたのですが、ちょっと煩雑な話だったので、記事には書きませんでした。

今回頂いたコメントを拝見して、改めて調べてみると、なかなか面白い話でしたので、再び記事にすることにしました。

 


12世紀から13世紀、イタリアのアッシジに、フランチェスコというキリスト教の聖人がいました。
フランチェスコは、「もう一人のキリスト」と呼ばれるほど信仰に篤い人で、彼の説教を聴きに、小鳥が集まってきたと言う説話が知られています。
そのフランチェスコが、ある時『キリストが磔になった十字架の上に咲く花』を夢に見た、と言う話が伝わっているということです。

やがて16世紀になり、コロンブスのアメリカ大陸発見を受けて、キリスト教の宣教師たちが南アメリカへ布教のために渡り始めます。
その時に渡ったイエズス会の宣教師が、この『トケイソウ』と出会い、「これこそが聖フランチェスコが夢に見た花に違いない」と、確信してしまったのだそうです。

つまり、トケイソウの葉を槍に、五本の雄蕊の葯をキリストが釘と槍で受けた五ヶ所の傷に、そして巻きヒゲを鞭に、更に子房を十字架、三本の雌蘂を釘にと、花の部分ごとにキリストの受難を象徴するものに、見立ててしまったというわけです。

この花を見た宣教師たちは、布教活動に懸命になったということです。

このことから、『トケイソウ』は、受難の花という意味の『Passion flower』と呼ばれることになりました。

ですから、果実の方も『パッション・フルーツ』になるわけです。

・・・と言うことで、やはりややこしい話でしたね・・・。
花も、不思議な姿ですが、伝わっている話も不思議なものだと思いました。

それにしても、信仰心というものの凄さを感じさせる話でもあります。

でも、『トケイソウ』『聖フランチェスコ』『イエズス会』と、色々調べてみると、とても興味深いものがありました。

コメントを下さった皆さんのお陰で、色々と知ることが出来ました。
ありがとうございました。


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