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西行忌 [歴史・伝説]

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    身を捨つる人はまことに捨つるかは

         捨てぬ人こそ捨つるなりけれ

                         読人しらず

                    詞花和歌集 巻10(雑下)題しらず

 平安時代後期、崇徳(すとく)上皇の院宣(いんぜん)によって編纂された、勅撰和歌集の一つである「詞花和歌集(しかわかしゅう)」に、「読み人知らず」として載せられているこの歌は、院(上皇)の御所を守る「北面の武士」であった、兵衛尉(ひょうえのじょう)佐藤義清(さとうのりきよ)の詠んだものです。
 この歌集が編まれた頃には、義清は既に出家をして、「西行法師」となっていましたが、この歌を
詠んだ時期は出家前で、兵衛尉という低い官位であったため、読み人知らずとされたのだといいます。

  身を捨てる(出家をする)ということは、御仏の救いを求めてのことであるから、
  本当に身を捨てるということではない。
  しかし、身を捨てようとしない人は、御仏の救いを求めていないのであるから、
  出家しない人こそ、我が身をすてようとしているのではないであろうか。

 それは、佐藤義清が出家をして僧となる思いを、表明した歌のようです。

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 また、出家前の西行には、次のような歌もあります。

  そらになる心は春の霞にて 世にあらじとも思ひたつかな

                          山家集 春歌

 山家集の詞書に、「世にあらじと思ひける頃」とあることから、義清が、二十三歳で出家する直前の歌であると考えられています。

 当時、佐藤義清は低い官位とはいいながら、北面の武士としても、和歌の名手としても、朝廷内での評価も高かったようです。
 しかし、義清の出家への願いは強く、鳥羽上皇に対して、北面の武士を辞めて僧として出家したい旨を
、願い出ていたのですが、鳥羽院はそれを聞き入れなかったといいます。

 西行の出家の理由に就いては、様々な原因が取り沙汰されています。

 例えば、北面の武士として勤めていた頃、前日まで共にいた親友が、翌朝訪れると既に亡くなっており、それが機縁となって、出家したという話が伝えられています。
 しかし、その親友の実在の記録もなく、
実際の出家の理由は定かではありません。

 それに就いて、当時の左大臣であった、藤原頼長(ふじわらのよりなが)の日記、「台記(たいき)」には、次のような記述があります。

 頼長が、兵士に弓矢の訓練をさせていると、西行法師が法華経写経の勧進の依頼に現れたので承諾をしたうえで、
 「西行に、年齢を問うと二十五歳だと言う。(
去々年出家二十三歳)
 そもそも西行は、元は兵衛尉の義清である。「重代の勇士(先祖代々の勇士
)」として(鳥羽)法皇に仕えていたが、出家以前から、心は仏の道を目指していた。家も裕福で、年も若く、心に憂いが無いにも係わらず出家を果たした。人々は、この行いを嘆美している」

 この内容からすると、西行の出家には、特別な原因はなく、ひたすら仏道を志した結果と捉えられていたと見られます。また、この時、頼長は二十三歳であり、ほぼ同年代の西行に、些かの共感を感じていたのかも知れません。

 尚、鎌倉幕府の記録である「吾妻鏡」に、佐藤義清の祖先が、天慶の乱に於いて平将門を倒した藤原秀郷(ふじわらのひでさと)であることを、西行自身が源頼朝に語ったことが記されており、「重代の勇士」とは、そのことを指すようです。

 白洲正子は、その著書「西行」に、(無頼の徒とも言える藤原秀郷の血を継ぐ)「重代の勇士」の体内にひそむ暗黒の部分、-恐るべき野獣にも似た荒い血潮を鎮めるために、仏道に救いを求めたのではなかったか。」と記しています。

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 また、「源平盛衰記」には、西行が「申すも恐ある上臈(じょうろう)」との恋に破れたことが出家の原因とあります。「申すも恐ある上臈」とは、非常に高貴な身分の女性ということですが、この話にもあまり信憑性はなさそうです。


 しかし、西行は僧でありながらも、詠んだ和歌には、恋の歌が数多く含まれます。


  歎けとて月やはものを思はする

     かこちがほなる我が涙かな

                山家集 恋


  歎けと言って 月が私にものを思わせるのか

  いや そうではない

  月にかこつけて 私の涙が溢れて来るのだ

 これは、藤原定家によって、百人一首にも採られた恋の歌です。

 西行の、多くの恋の歌が誰を思っての歌なのかは、どこにも書かれてはいません。

 しかし、角田文衛は、著書「待賢門院璋子の生涯」の中に、西行にとって待賢門院は「久遠の女性」であったと「はしがき」に書いています。
 白洲正子は、それを受けて、著書「西行」に「『申すも恐ある上臈』とは、鳥羽上皇の中宮、待賢門院璋子(
たいけんもんいんたまこ)にほかならないことを私は知った。」と記して、その意見に賛意を示しました

 待賢門院が、四十五歳で崩御された後、西行が待賢門院に仕えていた女房で女流歌人の、待賢門院堀河(たいけんもんいんのほりかわ)と交わした歌があります。

  尋ぬとも風のつてにも聞かじかし

       花と散りにし君が行方を

                    西行

   返し

 
  吹く風の行方知らするものならば

     花と散るにもおくれざらまし

                    堀河


    花のように散って行かれた待賢門院様の行方は 

    どんなに尋ねても 風の便りにも聞く事は出来ない  西行


    吹く風があのお方の行方を知らせてくれるのならば

    私も遅れることなく花と散りましょうものを        堀河


 待賢門院璋子は、西行よりも一歳年下の崇徳上皇の母にあたりますから、西行よりも十七歳ほど年上で、九人の皇子や姫皇女を産んでいますが、年齢に係わらず、美しく魅力的な女性であったということでしょうか。

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 西行が亡くなったのは、文治六年二月十六日、七十三歳でのことと伝えられています。

 今日、平成二十四年三月八日は、旧暦の二月十六日で、西行の忌日にあたります。

 しかし、歳時記を見ると、以下の歌に合わせて、釈迦の涅槃会である旧暦の二月十五日を西行忌とするのだそうです。

 でも、僕としては、やはり今日(旧暦二月十六日)を「西行忌」としておきたいと思います。


  願わくは花のしたにて春死なむ

      その如月の望月のころ

              山家集 春

   願いが叶うのであれば 春 桜の花の下で死にたい

   如月(きさらぎ=二月)の十五夜の頃

   釈迦如来が涅槃(ねはん)に入られたその頃に

 この歌は、西行の辞世の歌のように思われがちですが、実際には六十歳の頃に詠まれたもののようです

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 文治六年二月十六日を西暦に換算すると、1190年3月23日にあたるそうですから、西行の願い通りに、桜の花は美しく咲き初めていた頃のことでしょうか。
 

 

追記 1

 今年は、例年にない寒さのせいで、梅さえも相当に遅れて、漸く咲き始めようとしています。
 何時もであれば、、三月にもなれば、少し早咲きの寒桜や彼岸桜、そして河津桜等が咲き始める頃です。
 上野公園の嘗ての噴水の側には、かなり早く咲く桜があり、今年も咲いているのですが、現在は公園の改修工事のため、近付く事が出来ません。
 仕方なく、工事現場のフェンス越しに撮ったのが、最後の写真です。
 一枚目と、メジロのいる写真は、公園内の清水寺の下の道路脇に咲いていた寒桜の樹で撮りました。


 追記 2

 前回の記事に、サトウハチローさんの「うれしいひな祭り」の歌詞への疑問に就いて書きましたが、とても嬉しいことに、So‐netブログ仲間の はてみさんと ゴーパ1号さんから、3月3日の朝日新聞に同様の事が載っていたことを知らせて下さいました。ありがとうございました。

 そこに、「赤いお顔の右大臣」の歌詞に就いても、本当は「左大臣」であることが記されていますが、
これに就いて、ちょっと思い当たることがあるので、ここに記して置きます。

 今回の記事にも、「左大臣 藤原頼長」に就いて、少し触れましたが、当時の官職には、左大臣と並んで右大臣がいます。官職の上下でいえば、左大臣が上位になります。
 それを、段飾りの雛人形として見る場合、一般に向かって右・向かって左、という見方をすると思いま
す。謂わば、道路での右折・左折と同様です。
 しかし、本物の左大臣と右大臣のいた、平安時代の御所では、あくまでも天皇が中心となりますから、
天皇の側から見て、左にいるのが左大臣。右にいるのが、右大臣となります。

 と言うことで、段飾りの雛人形では、逆に、こちらが人形の前に立って見る事になりますから、向かって右が左大臣、向かって左が右大臣となります。恐らく、この歌の歌詞は、そういう感違いなのだと思います。
 まあ、無理からぬ感違いと言っていいのではないでしょうか。

 また、dino-tailさんからのご質問の「お嫁にいらした 姉様」は、「嫁いで行って今は家にいないお姉さん」のことだと、僕は思っています。
 遠くへ行ってしまったお姉さんを、哀しく思い浮かべている弟(サトウハチローさん)の気持ちを思うと、何だかちょっと切なくなります…

 参考図書

西行 (新潮文庫)

西行 (新潮文庫)

  • 作者: 白洲 正子
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1996/05
  • メディア: 文庫
西行 (人物叢書)

西行 (人物叢書)

  • 作者: 目崎 徳衛
  • 出版社/メーカー: 吉川弘文館
  • 発売日: 1989/11
  • メディア: 単行本
待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))

待賢門院璋子の生涯―椒庭秘抄 (朝日選書 (281))

  • 作者: 角田 文衛
  • 出版社/メーカー: 朝日新聞社
  • 発売日: 1985/06
  • メディア: 単行本
山家集 新訂 (岩波文庫 黄 23-1)

山家集 新訂 (岩波文庫 黄 23-1)

  • 作者: 西行
  • 出版社/メーカー: 岩波書店
  • 発売日: 1928/10/05
  • メディア: 文庫






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uminokajin

この歳になって西行の歌が分かりかけています。
by uminokajin (2012-03-09 06:17) 

mimimomo

おはようございます^^
先日ブログで、桔梗之介さんだったと思いますが、この白洲正子さんの『西行』のことが
取り上げられていました。そのとき『読んでみよう』っとそのままになっていました(--;
今日は、買ってこなければ^^ 旅に出るのできっと読む時間があると思う。
文庫本はありがたいです。
少し皆様を見習って勉強しないと頭がさび付いてきています(__
by mimimomo (2012-03-09 08:46) 

枝動

なんとも、奥ゆかしい。
by 枝動 (2012-03-09 11:29) 

春分

西行についてあまり知らなかったことに気づかされました。
歌も百人一首と辞世の歌と思っていたやつ(そう思ってました)だかしか
知りませんでした。勉強しないといけませんね。
そうそう、メジロ。いい感じに撮れてますね。何ともいい構図で。
by 春分 (2012-03-09 18:49) 

ぜふ

西行といえば、その歌しか知らないくらいですが、
まさに春宵一刻に往生したのですね。(夜だったかどうかはわかりませんが)
それにしてもこんなに梅の咲くのが遅い年もめずらしいですね・・
by ぜふ (2012-03-10 00:32) 

sakamono

西行←→堀河のやり取りの詩に、少し感動^^;。
by sakamono (2012-03-10 15:30) 

きまじめさん

四国生まれの母との会話の中に
四国とゆかりの深い西行法師の名前が、よく出てきていました。
そのため、私が小学生の時に初めて覚えた百人一首が、これでした。
恋の歌とも知らずにです。
それから、縫い針をなくしたとき
「西行の旅の衣を縫う針はいずこにいても主を忘れず」
「これを3回心を込めて唱えると必ず見つかるよ」と教えてくれました。
不思議と出てまいりますので、いまだにこの「おまじない」を唱えています。
by きまじめさん (2012-03-10 16:18) 

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